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松濤 明の身内です。取り上げていただきありがとうございました。
ご身内の方にまでコメント頂き恐縮です。ありがとうございました。
敗戦直後で生き残った喜びで無茶をしてしまった感じですね。当時は山に行くのも大変だったでしょうから断念するのも躊躇われたのでしょうが、やはり無謀と言うしか無いでしょうね。戦後数年で登山をする余裕から裕福だった気がしますが、捜索隊からのトンデモナイ請求額は残された遺族を苦しめた気がしますので半分は死を覚悟の登山家達だったとは思いますが大雨が降った時点で戻る決断の方が勇気の有る行動だと判断して欲しかったですね。今でも予期せぬ雨で低い山でも死にますので雨が降った時点での判断は狂気としか言えないですね。残された人々の迷惑も考え無かったボンボンかと疑ってしまいます。キツイ言い方でスミマセン。
@@クマのプー太郎-y9p ご主張は分かりますが、わざわざ身内の方に返信する必要がありますか?ネット上でもマナーは大切です。人を傷つけるコメントは控えて下さると幸いです。
@@クマのプー太郎-y9p 釣りだと思うけど、不快な書き込みではないかな。
@@k2yoshhyうれしくて ちょっとコメント入れただけですがいろいろな考え方感じ方がありますね。どうかお気になさらないで下さい。明は私の伯父にあたります。目黒の祐天寺に当家の墓があり伯父も眠っております。お近くにお越しの際はお立寄り下さい。
死が自分にも間近に迫っている中、極限状態の中でも、有元さんの状態を常に思いやり、人としての優しさ、強さを忘れなかった松濤さん。元々、人格者だったと思われますが、登山と共に人となりの精神も更に鍛えあげられていたのですね。装備、情報入手方法等、戦後の登山環境は現在と比べて想像もできないくらい厳しいものだったことでしょう。遺書の内容は、哀しいけど、何処か力強く胸を締め付けられました。改めてお二人のご冥福をお祈り致します。
山登りの先輩いるけど、めっっっっちゃ優しい人です。私のようなポンコツにも、「大丈夫、大丈夫」って励ましながら、笑顔で仕事を教えてくれました。
わかります〜! 山好きって、優しい人多いですね〜😊
有元さんを置いていけなかった松濤さん、君は下山しろといった有元さん、せつないですね……。
「共に戦うも命、友の辺に捨つるも命、共に行く」結構有名な一節ですが語源は知りませんでした。美しい言葉としか。読んだことのない私が知っているくらいだから当時ベストセラーになったというのもわかりますね。男性は自分で子供を生む事がないから、命は自分のものと思いがちなのかな。戦争を生き抜いて帰ってきた命、大切に使って欲しかった。退く勇気も持ってて欲しかったな。
コメントありがとうございます♪そうですね。引き返すのも勇気だと思います。
これは涙なしではきけない壮絶で同胞愛に満ちた話。前人未踏の記録の樹立という目的があったにせよ、人をして命を懸けてまで挑戦に向かわせ魅了する登山ってなんだろう。
松濤さんの厚い友情に涙です。この極限の状況での松濤さんの判断に正解も間違いもないと思います。
『風雪のヴィバーク』読みました。松濤明さんの手記手帳が大町市の山岳博物館に展示されていると知り、何度も行きました。全てにおいての『覚悟』がそこにありますね。北アルプスを眺めながら合掌しております。
コメントありがとうございます
冬山登山や高山登山は恐ろしい悪魔の魅力があるように感じます。私は登山はしないですが、こうした先達の登山者のエピソードに惹かれるものがあります。だからアルピニストという職業が成立するのだと思いました。
とりのそらねさんコメントありがとうございますおっしゃられる通り、困難な危険な登山には麻薬のような魅力があり、アルピニストを狂わせてしまいます。
我々ガ死ンデ〜グルグルマワルのところが心に突き刺さる物がありました。素晴らしい死生観だと思います。
コメントありがとうございます♪松濤明のお母さんがお寺の娘ですので、輪廻転生の考えが浮かんだのかもしれません。
悲しいけど美しい友情ですね。新田さんの本、読んでみます。
コメントありがとうございます♪是非ともお読みください
遭難経験者です。ルートを見失ってからの滑落、遭難で冬山で一晩明かして何とか救助していただきました。登山家ではありませんが上温湯隆さんを取り上げて頂ければ嬉しいです。
コメントありがとうございます。『サハラに死す』ですね、検討してみます
なんつーか…悲しいけど美しい友情だな。
ただお母さんの気持ちとしては、友人には申し訳無いと思いながらも…やはり一人でも下山して欲しかた…と思った野では無いですかね…勿論その事は一生涯他人に語る事は無かったにしても…😔
この動画、何度聴いても涙が出る🥲松濤さんの文章が優しくて強くて温かくて心がつぶれそうになる。
コメントありがとうございます。死を目前にして書いたとは思えない名文ですね。
夢を見て夢に散り、そして後世に教えを残した。ただそれだけでも、僕らは何千何万の前人たちの教えに助けられてこうして生きている
私はBGMがとても効果的だと感じながら視聴させて頂きました。(特に6:07~泣けてきました。) ゴアテックスのダウン着てスキー三昧の若い頃に何度も見上げた槍ヶ岳…地元にこのような悲しい出来事があったのも知らず、楽しい思い出ばかり。久々に大町に行って、彼の思いに触れたくなりました。感動的な動画をありがとうございます。
コメントありがとうございます♪フリーbgmのsad_rainを使わせて頂きました。ruclips.net/video/MHCIcDr2qSw/видео.html
編集も素晴らしいですね。自分も山が好きで、この動画に感動し、ライブラリーに保存させて頂いています。生きていくこと自体、晴れの日もあれば、風雪の日もある。辛い時、しんどい時、この動画を観ます。死を選んだ松濤さんですが、その選択は、逆に生きる大切さを伝えてくれる。そして、どんな時も人として大切なことを忘れるべからずと。
@@こま犬こまこ-n1s コメントありがとうございます♪過分なお褒めの言葉を頂き恐縮です。友を見捨てず、死を前にしてあんな壮絶な遺書を残した松濤明の生き様には感動しますね。
@@yukkuri_adventure “死ヲ決ス"のくだりが、すごく心に響いて涙です。短文の中に松濤さんの色んな想いが込められていますよね。いつも素晴らしい動画をありがとうございます。これからも頑張って下さい☺️
@@こま犬こまこ-n1s ありがとうございます♪これからも頑張ります。
天候に恵まれなかったとはいえ、凄まじい最期です。歴史にifはないけれど、松濤さんが生き延びたら、この後どういった足跡を刻んでいったのかと思うと興味深いです。けど、やっぱり仲間を見捨てては行けない気持ちは間違いなくあるでしょうね。
コメントありがとうございます。もし松濤明が生きていたら、ヒマラヤに挑戦したかもしれません。
誠の男、松濤明、千年不朽名!
現在のように情報共有にも限りがあり、科学的な気象条件の考察や低体温症などの知識もなかった時代・・・こうした先人の命がけの栄光と失敗により、どれだけの山の後輩たちが命を救われてきたのでしょうね。彼らが残してくれたものが今の登山の礎となっているのでしょう。
衣服とテントがビチャビチャになった時点で引き返してたら死ぬことはなかったんだろうなぁ
あきらめず進む勇気と早めにあきらめ引き返す勇気。引き返す勇気の方が大きく重いのだね。最後の遺書はまるで特攻隊のような記述に胸が熱くなりました。合掌。
追加情報として、「最後の手帳」は大町山岳博物館に収蔵されていて、北穂高岳北峯のコルにある岩峰「松濤岩」は彼の名前に由来するそうだ。
コメントありがとうございます。私も大町山岳博物館で松濤の遺書を見たことがあります。
@@yukkuri_adventure 実物を御覧でしたか。
装備が濡れた段階で引き返す勇気を持てればよかったですね。
コメントありがとうございます♪そうですね、やっぱり周囲の目を気にして引き際を見誤ったのかもしれません。
いくら燃料があってもテントでないと、雪洞だと装備を乾かすことはできません。もの凄い超冬型の天気図だな。沖縄あたりまで西高東低の等高線が縦にそろっている。沖縄でも雪が舞っただろう。現代の冬型は等高線の縦に揃うのは東北あたりです。
コメントありがとうございます♪天気図を考察して頂けるとは嬉しいです。頑張って探した甲斐がありました。
お二方とも高潔な人格の持ち主で深く心に響きました。極限下での人間の精神性の高さにただただ感服いたしました。ご冥福をお祈りいたします。
風雪のビヴァーク、また読み直したくなったな。
コメントありがとうございます是非お読みください
最高なチャンネル!好き
ありがとうございます!!これからもよい動画を作れるように頑張ります
最初の時点で頼むから帰って欲しいと思ってしまう……
動画ありがとうございます。興味があってこの本の内容の動画探していました。新田さんのもふくめて購入したいと思います。
ありがとうございます。新田次郎さんの書籍も是非お読みください。
友人と共に、その優しさと最後まで記録を残し、後世に語り継がれる物を残してくれた。もちろん、無謀な挑戦であったのかもしれないが、、泣けてくる。
コメントありがとうございます♪凍死寸前で書いたとは思えない遺書ですね。
私も大町の登山博物館で本物の遺書を見ました。物凄くショックを受けました。本も読みましたし、写真で見ていましたが、その小さなメモ帳には圧力があるというか。。
コメントありがとうございます♪死の淵にいるのに力強い筆跡で格調高い遺書でした
置いて行ってほしい…置いては行けない…。お二人の友情に思いがこみ上げました。でも、生きていてほしかったです。ご冥福、お祈り申し上げます。
コメントありがとうございます。パートナーの絆の強さを感じますね。
遺書の文章が美しい✨✨✨
コメントありがとうございます♪凍死寸前で書いたとは思えませんね。
特攻隊の辞世の句もそうですが、当時の人は教養のレベルが違う気がします。
自分は雪国生まれですが服が凍った状態でまだ登ろうなんて凄すぎる
コメントありがとうございます。ゴアテックスのない時代、冬山はアウターが凍った状態で登っていたと思います。
引き返すのって、本当に難しいんですね。
コメントありがとうございます引き際の判断は本当に難しいです
服部文祥さんの著書「K2」に、遺書の内容が書かれていました。服部さんも同じ登山家ということもあり、非常に興味深い内容となっています。
コメントありがとうございます♪服部さんの著書にも取り上げられていたのですか。知らなかったです。
地元の人間ですが、このような話があるとは知りませんでした。ありがとうございます。
見捨てていいと言われても絶対に友達を見捨てない。ここまで優しい人がいるなんて。いざという時見捨てない、自分もそんな人になれたらと思います。
見捨てない=優しいではないと思います友達からしたら自分のせいで死なずに済むはずの友達を死なせてしまう苦しさが生まれるので見捨てずに二人で生還したのなら大いに見習いたいですが
@@brigabiergerarb513おっしゃる通り 見捨てて下山するのも優しさでしょう。この場合誰もが下山する道を選ぶと思います。ですがこの人は見捨てなかった。常人には出来ないことをしたのだと思います。おそらく優しさや勇気とは違う次元という事なのだと思います。
濡れて、テントが使い物にならなくなった時点で撤退して日を改めることさえできれば…
松濤さんの最期には、人それぞれ色んな想いがあると思いますが、やはり生きていて欲しかったですね。
栗城の動画も拝見しました。シンプルにまとめられててとてもいいです。ぜひ、山野井泰史さんも取り上げてください。他の動画もみます!
コメントありがとうございます。山野井泰史さん、挑戦してみます。
返信ありがとうございます。栗城さんとは正反対ともいえる人ですが、すごいドラマチックな人生を送ってるようです。実績はもっと注目されてもいいものですけど、本人があまり望まないこともあり今の若いクライマーたちは皆知りませんね。。
『風雪のビヴァーク』、昔読んだなあ。「サイゴマデ タタカウモイノチ 友ノ辺二 スツルモイノチ 共ニユク」というくだりで、涙が止まらなかった。
コメントありがとうございました♪その一文は省略してしまいましたが、やはり動画に入れるべきだったかも知れません。
今際の際に短歌を作れるとは…。教養の高さが窺えます。せっかく戦争を生き延びたのに遭難死…。あまりに残念です。合掌。
引き返すのも勇気がいるし難しいよなぁ。テント使えない時点でもうかなり厳しそうだが、、、
そう思います。テントを失った時点で長期縦走は無理でしょう。
「風雪のビバーク」大切な蔵書です。個は仮の姿、ぐるぐる回る…忘れられない言葉です。彼は、確か、井上靖の「氷壁」のモデルでもあったのでは…
コメントありがとうございます。確か松濤明のお母さんがお寺の娘だったはずで、仏教的な輪廻転生の考えが最後に浮かんだのかもしれません。
@@yukkuri_adventure 返信ありがとうございます。26歳の青年にしてはとても達観した言葉だと思いましたがそういう背景があったのですね。せっかく戦争から帰ってこれたのに残念。いい奴は早く召されてしまいますね。孤高の人、加藤文太郎も惜しいことでした。彼は山仲間にせがまれて初めてパーティを組んで遭難したのでしたね「氷壁」はナイロンザイル切断事件をモチーフしていますが、主人公の人物造形はこの二人辺りかもしれませんね。これからも、素敵な動画を期待しています。頑張ってくださいね。
再挑戦という言葉は彼にはなかったのか。ベストコンディションで臨むべきではないのか。
うしろの百太郎さん雨でぬれてしまうことに対する備えが不十分で、そのリスクを軽視していたように思います。ゴアテックスがあれば、別の結果になっていたかもしれません。
@@yukkuri_adventure せめてビニール袋さえあれば変えの衣服は濡れずに済んでいたのに
@@淡水化物-y6k そうですね、、。油紙しかない時代ですからね。
アイガー北壁初登頂チャレンジ について取り上げていただけると嬉しいです。何年か前に映画化され 観ました。感動的でした。
コメントありがとうございます!アイガー北壁初登攀争いはドラマチックですね。大きなテーマですが、是非とも挑戦したいと思います
コメントありがとうございます♪アイガー北壁、頑張ってみます。
国立登山研修所が発行した資料(書名は調べ切れなかった)の中に『本場アルプスでアイガー北壁の初登攀(1938 年)が成される以前に,自国に雪線を持たぬ我が国のクライマーたちはより厳しい対象を求めて冬季登攀という日本独自の登攀形式を実践していたのである。』との一文(冬季登攀は大正10年代=1920年代に始まったとのこと)が有り、創意工夫と言うべきか魔改造文化と言うべきか。
アイガー北壁と聞いて、故ウーリー・ステックを思い出したのって私だけだろうか…。
風雪のビバーク、50年ぶりに再読しました。
そんなに昔に発刊されていた本なのですね。私はこの動画を観て感動し、Amazonで中古本を取り寄せました。転職したばかりなので、落ち着いたら読もうと思っています。
松濤さんの覚悟は何の迷いもない決断だったのでしょう自分が助かる事や、一人で下山して生きたとしても、一生後悔することになっているはずですこの場でパートナーと死を共にする覚悟は、人として立派な最期だと感じましたこんな結果が待っていたとしても登山家はチャレンジしていくことを選ぶものなのでしょう
コメントありがとうございます。あれだけの遺書を残せるのですから、かなり余力を残していた気がします。
本当の気高さ、潔さですね……
そもそも、終戦後の1949年に、1949年レベルの装備で、冬の槍ヶ岳に登れることに驚きだよ!
ゆっくりはやくさんコメントありがとうございます♪そうですよね、ゴアテックスはもちろん、ビニールですらないかもしれません
@@yukkuri_adventure 少なくとも合成ゴム、ナイロン、テフロンは1930年代半ば以降には開発されていましたが、登山道具に使用され始めたのは私が知る限り1954年のナイロンザイルですね。合成樹脂もセルロイドやベークライト等がありましたが合成樹脂が日本で大々的に使用され始めたのは1960年代とのこと。この事件当時ではおそらくそう言った類の道具は無かったでしょう…
@@dhkbeans327 ありがとうございます。風雪のビバークでも遺書は油紙で包んであったとありますので、ビニール袋もなかったのでしょうね。
1950年にアンナプルナに初登頂したフランス隊は、ナイロン部隊とも言われたな。私の知る限り、この時のフランス隊ほど幸運に恵まれた登山隊は他に聞いた事が無い。初挑戦で初登頂に成功し、一人の犠牲者を出す事なく無事に撤退。しかも、当時は周辺の地図がほとんど整備されていなかった。それでも8000m峰の登頂は過酷なモノで、山頂に立ったモーリス・エルゾーグとルイ・ナシュナルは二人逢わせて30本(!)の指を凍傷で失った。
ジオラインは化学繊維なんで、冬山にはメリノウール(それも中厚)の方がいいです。
ラジウス学生時代使ってました。固形燃料で熱を与える事や火力調整が難しかったが、故障した記憶は殆どない。メンテナンスも頻繁に必要ではなく、火力が弱いて欠点もあったがホエーブスに比べると、(火災)事故する可能性が低く昭和の時代は学生山岳部・WV部でよく使われてました。
コメントありがとうございます♪私は実際にラヂウスを使ったことがなかったので、本だけで壊れやすいものだと思ってました。実際には丈夫なのですね、、
この手帳は大町山岳博物館に行けば見れると思います。ただ、私が見たのは30年ほど前なんで、ご参考まで。
コメントありがとうございます。3‐4年前でも見れたと思います。
冬の北鎌尾根といえば、加藤文太郎ですね、「孤高の人」の。単独行者として憧れて、北鎌尾根に登りました(夏ですが)。
コメントありがとうございます北鎌尾根の完登おめでとうございます。私は3月に登って敗退しました。独標の写真はその時のものです
加藤文太郎が亡くなった年に日本最初のヒマヤラ登山(戦前唯一)が成功したのも何かの縁かな。
素人考えでは、大雨でびしょ濡れになった段階で、中止すべきだったのでしょうが、当事者としてはそうはいかない事情があったのでしょうね。
コメントありがとうございます。困難な状況ほど燃えてしまう(やる気が出る)登山家の性質が出たのかもしれませんね。
年末に雨が降ってずぶ濡れで、正月の劔に登ったことがあります。テントで停滞してガソリンコンロで濡れものを乾かしました。雨が降った後は冬型になります。テントがないと厳しいです。私は東京23区生まれです。戦後の最低気温ー9℃だったと爺さんに聞きました。現代とは比べ物になりません。
コメントありがとうございます。この時代はゴアテックスもないし、雨に降られると大変だったと思います。
そうだよな、置いていけないよな・・・・。そうだとは思うんだけど、やっぱ生き残るチャンスがある以上、必死に足掻いて生き延びようとする事が、命ある者の務めだと思うんだが・・・・。その方が、有元さんも浮かばれたんじゃなかろうか。今となっては、御霊が安らかであるよう、祈るしかできない。
コメントありがとうございます。ここで有元とともに果てたからこそ、いまでもクライマーの間で松濤明が伝説化しているのかもしれません。私も彼の冥福を祈ります。
徒歩渓流会の古い会員によくしてもらいました。松涛の話を聞きたかったけれど、気後れしてしまい実像に近付くことはできませんでした。自分にとっては文太郎とともに単独行のモチベーションとなる存在です。
コメントありがとうございます。この遺書だけが有名ですが、実は彼の残した記録もすごいですよね。
南極点を目指したロバート・スコット大佐の悲劇を思い起こさせます。物語的にいくつか似通ったところもありますし。
コメントありがとうございます♪スコットの動画もアップしてますので、是非ご覧ください
@@yukkuri_adventure スコットの動画見ました。彼らに共通していたのはその時その時の局面での判断のミスでしょうが、我々がそれをミスと言えるのは、後で結果を知っているから言えるのであって、と思うと、やるせないですね。
コメントありがとうございます♪そうですね。私たちは判断ミスだと言えるのは結果を知っているからですね。動画をご覧頂きありがとうございます♪
装備が濡れて放棄した段階で、引き返す決断があればまた挑戦のチャンスが有ったのに
いつも素晴らしい動画をありがとうございます。リクエスト、山野井泰史さんと奥様を取り上げて欲しいです。よろしくお願いします。
もう何10年も前になりますが、無雪期の北鎌尾根に登ったことがあります。ルートができていてペンキのマークもあるので、そんなに困難ではありませんでした。槍の頂上に辿り着いたときは他の登山客に注目されてちょっと恥ずかしかったです。
コメントありがとうございます♪無積雪期でも北鎌尾根に登れるのはすごいですよ!
優しくて義理堅い人だったんだなあと…悲しいですね
画像は、ラジウスではないですよスベア123も名器ですが燃料はガソリン。ラジウスの燃料は灯油植村直己も極地に持って行ってました
ご指摘ありがとうございます♪すみません。写真を間違えていたかも知れません。確認致します。
1936(昭和11)年1月、北鎌尾根で遭難した【加藤文太郎】も取り上げてほしいです。
コメントありがとうございます♪加藤文太郎、リストに入っています。少々お待ち下さい!
終戦直後に登山趣味にカメラの装備…父親が軍のお偉いさんだった裕福な家庭だったのかな?
コメントありがとうございます。松濤明の父親は高級官僚だったようですね。
壮絶な登山。1979年の、長谷川恒男さん、森田勝さんの、グランドジョラス冬季単独登攀のお話をお願いします。
コメントありがとうございます♪リクエストにお応え出来るように頑張ります。
アリソンハーグリーブスやメスナーなどの話も聞きたいです!
コメントありがとうございます。頑張ります。アリソンハーグリーブスには私も興味があります。
長谷川恒夫さんをお願いします。弟が八ヶ岳赤岳で転落、骨折したときのことです。回復後、救助のお礼に、お酒を持って赤岳鉱泉に行ったら、長谷川恒夫さんにお会いしたそうです。
コメントありがとうございます。長谷川恒夫さんは外せませんね、頑張ります
此れだけの、冷静さと、賢さが、ありながら冬の雪山🏔️に登る🎵
異常気象だったんですねー。気象衛星による天気予報、ゴアテックスの衣類の御蔭でなんとか山で遊ばせてもらっている事に感謝。
コメントありがとうございます♪ゴアテックスは偉大な発明ですね
風雪のビバーグ帆布のテントは濡れて凍るとパリパリになり撤収するのも大変です冬季に雨になると大変です身体と着ているものも濡れテントの中で震えながら横になるのです松濤さんの手記は似たような経験を持った人しかわからないかも…自然の力に人は無力ですm(__)m
コメントありがとうございます♪ゴアテックスは有り難いですね。
涙がでてきた。
コメントありがとうございます♪悲しいですね、、、
失敗体験は笑うものでなく、学びです。登山に限らず仕事でも生かされます。多くの「ヒヤッとした」はいつか取り返しのつかない事を生みます。車もそう。
コメントありがとうございます。松濤の遭難も色々と学びを残してくれました。
不運が重なってしまった。その場に居たように恐怖と絶望を感じました。
松濤のバカ野郎!!!有元はきっと薄れゆく意識の中で松濤に生き延びて欲しいと願っていたはずだ。いろんな登山・遭難チャンネルがありますが、このチャンネルは関連書籍をきちんと読み込んで動画を作っており、またBGMの選曲が非常に秀逸で類まれなる素晴らしい内容を発表されている。
ありがとうございます♪これからも頑張ります。
松濤氏も有元氏も生きてさえいたら、、、と思うと残念でならない。どんな道へ進んでも名を残したに違いない。
コメントありがとうございます。生きていたらヒマラヤに挑戦したと思います。
戦争が終わった後だから尚更仲間を見捨てられ無い気風だったのだろうなあ。「同じ釜の飯を食った仲間」今時はこんな事を言う方が野暮なのか?
コメントありがとうございます。時代もあった思います。松濤明は軍隊をあまり好きではなかったようですが。
確か、朝、雪の中から、突然出てきたとのこと。 身体はいるだけのタコつぼ掘って過ごしたとのこと。彼なら遭難しないよ~~~~www 昔から・・・彼の帽子かぶった写真顔が大好き!!。
松濤さんのことでしょうか?
@@yukkuri_adventure そうです! 確か、宮城県人だったような?
大好きなので、彼関係を漁った結果の情報です。@@yukkuri_adventure
びしょ濡れの時点で止めるべきだったな
( ´•̥̥̥ω•̥̥̥`) 近しい者に山男がいたので、こんな気持ちで登ってたんだなーと思いました。
「テントを失い、装備を濡らしてしまった僕たちでは…不可能だった」テントが凍ったところでそれを思ってほしかった。
コメントありがとうございます。引き際見失っていますね、せめて天気予報が聞けるラジオがあればと思います。
真冬にこの山は、危ない。
1949で26歳だったら終戦時には22歳。多くの同級生を失っている世代に入る人達・・・
コメントありがとうございます。松濤は軍隊生活が嫌だったようですが、同世代の友人をたくさん失ったのかもしれませんね。
見応えがありました。登山家のことはほとんど知らないので勉強になります。BGMはところどころ場面にそぐわないので無理して入れなくても(BGMなしでも)いいかなと思います。
コメントありがとうございます。BGMに対するご意見もありがとうございます。場面にそぐわなかったのはどのあたりでしょうか?他の方からもBGMの音量が大きいというご意見がありましたので、ミヤコンカ編からはBGMの音量を下げました。
@@yukkuri_adventure コメント返信ありがとうございます。素人の意見で恐縮ですが、2:23 から始まった笛と三味線?的な音楽が割と軽快で楽しそうな曲なのに対し、すでに松濤たちの状況はかなり悪化しているのでちょっとちぐはぐに感じてしまいました。
アドバイスありがとうございます。次回は改善させて頂きます。
BGMは後半位から演出に功を奏していたと思います。自分は前半も特に気になることもなかったです。
開拓時代のドナー隊もお願いします
コメントありがとうございます♪ドナー隊は少し方向性が違う気もしますが、検討してみます
お見事です。👏加藤文太郎をやってください。新田次郎、孤高の人、の主人公です👏
ありがとうございます♪頑張ります!
極地法なんぞ登山家の恥だ!とゴルゴ13で中国の山岳部隊の隊長が言ってたな。でも生命失くすよりかはと思ってしまう旦那を失い息子も失った母親の人生とはいったい…さすがに這いずってでも帰って欲しかったな
コメントありがとうございます♪ゴルゴで極地法が語られているとは知らなかったです。
松濤明氏は学徒出陣を経験した人だったようだ。彼の遺書にはどことなく特攻隊員の遺書のような雰囲気があるな、と感じたが彼と特攻隊員たちとはほぼ同世代であり、生きて帰れただけでも奇跡だったのかもしれない。ただ、松濤氏は好きな登山を楽しみ、好きな山で死ねた。死に場所を選べなかった特攻隊員たちよりほんの少しだけ幸せだったろう。合掌。
コメントありがとうございます。確かに戦争で亡くなるよりは、好きな山で友達と死んだ方がまだ幸せだったでしょうね。
最初の雨の時点で引く事を決断しておけば;;勇気と無謀は別物
涙しか
年代を考えると冬の槍ヶ岳への挑戦は現代では海外で登山するくらいハードルが高いのかもしれません。装備や技術の進歩もそうですが交通技術の発展も忘れてはいけないですね。諸々の準備も含めて考えると引き返すという発想も難しかったのかもしれません。
TMさんコメントありがとうございます。そうですね、松濤は現代の海外登山レベルで準備に労力を費やしていたはずです。簡単には引き返せなかったのかもしれません。
ラジウスはシンプルな構造なのでめったに故障しません。(煤で詰まるくらいだが掃除する針道具が付属している)
コメントありがとうございます♪そうなんですか、私は昔に火を噴いたり点火しないことを見た思い出があるので故障しやすいと思っていました。
@@yukkuri_adventure しっかりプレヒートしてからポンピングすれば大丈夫です。たのもしい相棒でした。欠点は大きくて重いことですね。
そうなんですね!貴重なお話をありがとうございました
大無間山で遭難した坂本義一さんをお願いします!
コメントありがとうございます♪正直知らない方ですね、、、資料あるかなぁ
遭難の内容が八甲田と遜色無い…
コメントありがとうございます♪ゴアテックスの力はやはり偉大です
モンベルはアウトドア用品の製造販売を手掛ける会社の名前です。防水性や撥水性などの機能性素材の名ではありません。
コメントありがとうございます♪確かにゴアテックスと同列に並べることは誤解を招く表現だったかもしれません
山とは関係無いけど、この時代に冬山に挑戦出来るとは裕福な環境だったでしょうか?普通の人は衣食に困窮してる時代だと親に聞いてます。
コメントありがとうございます♪松濤のお父さんは官僚だったようで、平均以上の経済状況だったと思います
返信有難う御座います。
登山家はみんな死を受け入れてて一般人と考え方がかけ離れてる。いや、かけ離れてないと雪山に登ろうと思わないか・・・
コメントありがとうございます。命を懸ける挑戦だからこそ、冬山は麻薬のように登山者を引き付けるのだと思います。
最早、テントを失った時点で異常事態なんだから一旦帰れやw
戦時中に叩き込まれた軍国主義観から、撤退を恥じる意識が強かったのかもしれませんね。低体温症の危険性も、恐らく現代ほど周知されていなかった。義を貫いて亡くなられたのが救いです。合掌。
コメントありがとうございます♪ゴアテックスのような防水装備がなかったため、濡れに弱かったと思います。
帰って😰テントもなく服もびしょびしょとか死ぬ
テントが氷った時点で引き返せばな
松濤 明の身内です。取り上げていただきありがとうございました。
ご身内の方にまでコメント頂き恐縮です。ありがとうございました。
敗戦直後で生き残った喜びで無茶をしてしまった感じですね。当時は山に行くのも大変だったでしょうから断念するのも躊躇われたのでしょうが、やはり無謀と言うしか無いでしょうね。戦後数年で登山をする余裕から裕福だった気がしますが、捜索隊からのトンデモナイ請求額は残された遺族を苦しめた気がしますので半分は死を覚悟の登山家達だったとは思いますが大雨が降った時点で戻る決断の方が勇気の有る行動だと判断して欲しかったですね。今でも予期せぬ雨で低い山でも死にますので雨が降った時点での判断は狂気としか言えないですね。残された人々の迷惑も考え無かったボンボンかと疑ってしまいます。キツイ言い方でスミマセン。
@@クマのプー太郎-y9p
ご主張は分かりますが、わざわざ身内の方に返信する必要がありますか?
ネット上でもマナーは大切です。
人を傷つけるコメントは控えて下さると幸いです。
@@クマのプー太郎-y9p 釣りだと思うけど、不快な書き込みではないかな。
@@k2yoshhyうれしくて ちょっとコメント入れただけですがいろいろな考え方感じ方がありますね。どうかお気になさらないで下さい。明は私の伯父にあたります。目黒の祐天寺に当家の墓があり伯父も眠っております。お近くにお越しの際はお立寄り下さい。
死が自分にも間近に迫っている中、極限状態の中でも、有元さんの状態を常に思いやり、人としての優しさ、強さを忘れなかった松濤さん。元々、人格者だったと思われますが、登山と共に人となりの精神も更に鍛えあげられていたのですね。装備、情報入手方法等、戦後の登山環境は現在と比べて想像もできないくらい厳しいものだったことでしょう。遺書の内容は、哀しいけど、何処か力強く胸を締め付けられました。改めてお二人のご冥福をお祈り致します。
山登りの先輩いるけど、めっっっっちゃ優しい人です。
私のようなポンコツにも、「大丈夫、大丈夫」って励ましながら、笑顔で仕事を教えてくれました。
わかります〜! 山好きって、優しい人多いですね〜😊
有元さんを置いていけなかった松濤さん、君は下山しろといった有元さん、せつないですね……。
「共に戦うも命、友の辺に捨つるも命、共に行く」結構有名な一節ですが語源は知りませんでした。美しい言葉としか。読んだことのない私が知っているくらいだから当時ベストセラーになったというのもわかりますね。
男性は自分で子供を生む事がないから、命は自分のものと思いがちなのかな。戦争を生き抜いて帰ってきた命、大切に使って欲しかった。退く勇気も持ってて欲しかったな。
コメントありがとうございます♪
そうですね。引き返すのも勇気だと思います。
これは涙なしではきけない壮絶で同胞愛に満ちた話。
前人未踏の記録の樹立という目的があったにせよ、人をして命を懸けてまで挑戦に向かわせ魅了する登山ってなんだろう。
松濤さんの厚い友情に涙です。
この極限の状況での松濤さんの判断に正解も間違いもないと思います。
『風雪のヴィバーク』読みました。松濤明さんの手記手帳が大町市の山岳博物館に展示されていると知り、何度も行きました。全てにおいての『覚悟』がそこにありますね。北アルプスを眺めながら合掌しております。
コメントありがとうございます
冬山登山や高山登山は恐ろしい悪魔の魅力があるように感じます。私は登山はしないですが、こうした先達の登山者のエピソードに惹かれるものがあります。だからアルピニストという職業が成立するのだと思いました。
とりのそらねさん
コメントありがとうございます
おっしゃられる通り、困難な危険な登山には麻薬のような魅力があり、アルピニストを狂わせてしまいます。
我々ガ死ンデ〜グルグルマワル
のところが心に突き刺さる物がありました。素晴らしい死生観だと思います。
コメントありがとうございます♪
松濤明のお母さんがお寺の娘ですので、輪廻転生の考えが浮かんだのかもしれません。
悲しいけど美しい友情ですね。新田さんの本、読んでみます。
コメントありがとうございます♪
是非ともお読みください
遭難経験者です。ルートを見失ってからの滑落、遭難で冬山で一晩明かして何とか救助していただきました。登山家ではありませんが上温湯隆さんを取り上げて頂ければ嬉しいです。
コメントありがとうございます。
『サハラに死す』ですね、検討してみます
なんつーか…悲しいけど美しい友情だな。
ただお母さんの気持ちとしては、友人には申し訳無いと思いながらも…やはり一人でも下山して欲しかた…と思った野では無いですかね…勿論その事は一生涯他人に語る事は無かったにしても…😔
この動画、何度聴いても涙が出る🥲松濤さんの文章が優しくて強くて温かくて心がつぶれそうになる。
コメントありがとうございます。
死を目前にして書いたとは思えない名文ですね。
夢を見て夢に散り、そして後世に教えを残した。ただそれだけ
でも、僕らは何千何万の前人たちの教えに助けられてこうして生きている
私はBGMがとても効果的だと感じながら視聴させて頂きました。(特に6:07~泣けてきました。) ゴアテックスのダウン着てスキー三昧の若い頃に何度も見上げた槍ヶ岳…地元にこのような悲しい出来事があったのも知らず、楽しい思い出ばかり。久々に大町に行って、彼の思いに触れたくなりました。感動的な動画をありがとうございます。
コメントありがとうございます♪
フリーbgmのsad_rainを使わせて頂きました。
ruclips.net/video/MHCIcDr2qSw/видео.html
編集も素晴らしいですね。自分も山が好きで、この動画に感動し、ライブラリーに保存させて頂いています。生きていくこと自体、晴れの日もあれば、風雪の日もある。辛い時、しんどい時、この動画を観ます。死を選んだ松濤さんですが、その選択は、逆に生きる大切さを伝えてくれる。そして、どんな時も人として大切なことを忘れるべからずと。
@@こま犬こまこ-n1s
コメントありがとうございます♪
過分なお褒めの言葉を頂き恐縮です。友を見捨てず、死を前にしてあんな壮絶な遺書を残した松濤明の生き様には感動しますね。
@@yukkuri_adventure
“死ヲ決ス"のくだりが、すごく心に響いて涙です。短文の中に松濤さんの色んな想いが込められていますよね。いつも素晴らしい動画をありがとうございます。これからも頑張って下さい☺️
@@こま犬こまこ-n1s ありがとうございます♪
これからも頑張ります。
天候に恵まれなかったとはいえ、凄まじい最期です。
歴史にifはないけれど、松濤さんが生き延びたら、この後どういった足跡を刻んでいったのかと思うと興味深いです。けど、やっぱり仲間を見捨てては行けない気持ちは間違いなくあるでしょうね。
コメントありがとうございます。
もし松濤明が生きていたら、ヒマラヤに挑戦したかもしれません。
誠の男、松濤明、千年不朽名!
現在のように情報共有にも限りがあり、科学的な気象条件の考察や低体温症などの知識もなかった時代・・・
こうした先人の命がけの栄光と失敗により、どれだけの山の後輩たちが命を救われてきたのでしょうね。
彼らが残してくれたものが今の登山の礎となっているのでしょう。
衣服とテントがビチャビチャになった時点で引き返してたら死ぬことはなかったんだろうなぁ
あきらめず進む勇気と早めにあきらめ引き返す勇気。
引き返す勇気の方が大きく重いのだね。
最後の遺書はまるで特攻隊のような記述に胸が熱くなりました。合掌。
追加情報として、「最後の手帳」は大町山岳博物館に収蔵されていて、北穂高岳北峯のコルにある岩峰「松濤岩」は彼の名前に由来するそうだ。
コメントありがとうございます。
私も大町山岳博物館で松濤の遺書を見たことがあります。
@@yukkuri_adventure 実物を御覧でしたか。
装備が濡れた段階で引き返す勇気を持てればよかったですね。
コメントありがとうございます♪
そうですね、やっぱり周囲の目を気にして引き際を見誤ったのかもしれません。
いくら燃料があってもテントでないと、雪洞だと装備を乾かすことはできません。
もの凄い超冬型の天気図だな。沖縄あたりまで西高東低の等高線が縦にそろっている。
沖縄でも雪が舞っただろう。
現代の冬型は等高線の縦に揃うのは東北あたりです。
コメントありがとうございます♪
天気図を考察して頂けるとは嬉しいです。
頑張って探した甲斐がありました。
お二方とも高潔な人格の持ち主で深く心に響きました。極限下での人間の精神性の高さにただただ感服いたしました。ご冥福をお祈りいたします。
風雪のビヴァーク、
また読み直したくなったな。
コメントありがとうございます
是非お読みください
最高なチャンネル!好き
ありがとうございます!!
これからもよい動画を作れるように頑張ります
最初の時点で頼むから帰って欲しいと思ってしまう……
動画ありがとうございます。興味があってこの本の内容の動画探していました。新田さんのもふくめて購入したいと思います。
ありがとうございます。新田次郎さんの書籍も是非お読みください。
友人と共に、その優しさと最後まで記録を残し、後世に語り継がれる物を残してくれた。
もちろん、無謀な挑戦であったのかもしれないが、、泣けてくる。
コメントありがとうございます♪
凍死寸前で書いたとは思えない遺書ですね。
私も大町の登山博物館で本物の遺書を見ました。物凄くショックを受けました。
本も読みましたし、写真で見ていましたが、その小さなメモ帳には圧力があるというか。。
コメントありがとうございます♪
死の淵にいるのに力強い筆跡で格調高い遺書でした
置いて行ってほしい…置いては行けない…。お二人の友情に思いがこみ上げました。でも、生きていてほしかったです。ご冥福、お祈り申し上げます。
コメントありがとうございます。パートナーの絆の強さを感じますね。
遺書の文章が美しい✨✨✨
コメントありがとうございます♪
凍死寸前で書いたとは思えませんね。
特攻隊の辞世の句もそうですが、当時の人は教養のレベルが違う気がします。
自分は雪国生まれですが服が凍った状態でまだ登ろうなんて凄すぎる
コメントありがとうございます。
ゴアテックスのない時代、冬山はアウターが凍った状態で登っていたと思います。
引き返すのって、本当に難しいんですね。
コメントありがとうございます
引き際の判断は本当に難しいです
服部文祥さんの著書「K2」に、遺書の内容が書かれていました。服部さんも同じ登山家ということもあり、非常に興味深い内容となっています。
コメントありがとうございます♪
服部さんの著書にも取り上げられていたのですか。知らなかったです。
地元の人間ですが、このような話があるとは知りませんでした。ありがとうございます。
見捨てていいと言われても絶対に友達を見捨てない。
ここまで優しい人がいるなんて。いざという時見捨てない、自分もそんな人になれたらと思います。
見捨てない=優しいではないと思います
友達からしたら自分のせいで死なずに済むはずの友達を死なせてしまう苦しさが生まれるので
見捨てずに二人で生還したのなら大いに見習いたいですが
@@brigabiergerarb513おっしゃる通り 見捨てて下山するのも優しさでしょう。
この場合誰もが下山する道を選ぶと思います。
ですがこの人は見捨てなかった。
常人には出来ないことをしたのだと思います。
おそらく優しさや勇気とは違う次元という事なのだと思います。
濡れて、テントが使い物にならなくなった時点で撤退して日を改めることさえできれば…
松濤さんの最期には、人それぞれ色んな想いがあると思いますが、やはり生きていて欲しかったですね。
栗城の動画も拝見しました。シンプルにまとめられててとてもいいです。
ぜひ、山野井泰史さんも取り上げてください。
他の動画もみます!
コメントありがとうございます。
山野井泰史さん、挑戦してみます。
返信ありがとうございます。
栗城さんとは正反対ともいえる人ですが、すごいドラマチックな人生を送ってるようです。実績はもっと注目されてもいいものですけど、本人があまり望まないこともあり今の若いクライマーたちは皆知りませんね。。
『風雪のビヴァーク』、昔読んだなあ。「サイゴマデ タタカウモイノチ 友ノ辺二 スツルモイノチ 共ニユク」というくだりで、涙が止まらなかった。
コメントありがとうございました♪
その一文は省略してしまいましたが、やはり動画に入れるべきだったかも知れません。
今際の際に短歌を作れるとは…。教養の高さが窺えます。せっかく戦争を生き延びたのに遭難死…。あまりに残念です。合掌。
引き返すのも勇気がいるし難しいよなぁ。テント使えない時点でもうかなり厳しそうだが、、、
そう思います。テントを失った時点で長期縦走は無理でしょう。
「風雪のビバーク」大切な蔵書です。個は仮の姿、ぐるぐる回る…忘れられない言葉です。
彼は、確か、井上靖の「氷壁」のモデルでもあったのでは…
コメントありがとうございます。
確か松濤明のお母さんがお寺の娘だったはずで、仏教的な輪廻転生の考えが最後に浮かんだのかもしれません。
@@yukkuri_adventure
返信ありがとうございます。26歳の青年にしてはとても達観した言葉だと思いましたがそういう背景があったのですね。せっかく戦争から帰ってこれたのに残念。いい奴は早く召されてしまいますね。孤高の人、加藤文太郎も惜しいことでした。彼は山仲間にせがまれて初めてパーティを組んで遭難したのでしたね「氷壁」はナイロンザイル切断事件をモチーフしていますが、主人公の人物造形はこの二人辺りかもしれませんね。これからも、素敵な動画を期待しています。頑張ってくださいね。
再挑戦という言葉は彼にはなかったのか。ベストコンディションで臨むべきではないのか。
うしろの百太郎さん
雨でぬれてしまうことに対する備えが不十分で、そのリスクを軽視していたように思います。
ゴアテックスがあれば、別の結果になっていたかもしれません。
@@yukkuri_adventure せめてビニール袋さえあれば変えの衣服は濡れずに済んでいたのに
@@淡水化物-y6k そうですね、、。油紙しかない時代ですからね。
アイガー北壁初登頂チャレンジ について取り上げていただけると嬉しいです。何年か前に映画化され 観ました。感動的でした。
コメントありがとうございます!
アイガー北壁初登攀争いはドラマチックですね。大きなテーマですが、是非とも挑戦したいと思います
コメントありがとうございます♪
アイガー北壁、頑張ってみます。
国立登山研修所が発行した資料(書名は調べ切れなかった)の中に『本場アルプスでアイガー北壁の初登攀(1938 年)が成される以前に,自国に雪線を持たぬ我が国のクライマーたちはより厳しい対象を求めて冬季登攀という日本独自の登攀形式を実践していたのである。』との一文(冬季登攀は大正10年代=1920年代に始まったとのこと)が有り、創意工夫と言うべきか魔改造文化と言うべきか。
アイガー北壁と聞いて、故ウーリー・ステックを思い出したのって私だけだろうか…。
風雪のビバーク、50年ぶりに再読しました。
そんなに昔に発刊されていた本なのですね。私はこの動画を観て感動し、Amazonで中古本を取り寄せました。転職したばかりなので、落ち着いたら読もうと思っています。
松濤さんの覚悟は何の迷いもない決断だったのでしょう
自分が助かる事や、一人で下山して生きたとしても、一生後悔することになっているはずです
この場でパートナーと死を共にする覚悟は、人として立派な最期だと感じました
こんな結果が待っていたとしても登山家はチャレンジしていくことを選ぶものなのでしょう
コメントありがとうございます。
あれだけの遺書を残せるのですから、かなり余力を残していた気がします。
本当の気高さ、潔さですね……
そもそも、終戦後の1949年に、1949年レベルの装備で、冬の槍ヶ岳に登れることに驚きだよ!
ゆっくりはやくさん
コメントありがとうございます♪
そうですよね、ゴアテックスはもちろん、ビニールですらないかもしれません
@@yukkuri_adventure
少なくとも合成ゴム、ナイロン、テフロンは1930年代半ば以降には開発されていましたが、登山道具に使用され始めたのは私が知る限り1954年のナイロンザイルですね。合成樹脂もセルロイドやベークライト等がありましたが合成樹脂が日本で大々的に使用され始めたのは1960年代とのこと。
この事件当時ではおそらくそう言った類の道具は無かったでしょう…
@@dhkbeans327 ありがとうございます。風雪のビバークでも遺書は油紙で包んであったとありますので、ビニール袋もなかったのでしょうね。
1950年にアンナプルナに初登頂したフランス隊は、ナイロン部隊とも言われたな。
私の知る限り、この時のフランス隊ほど幸運に恵まれた登山隊は他に聞いた事が無い。
初挑戦で初登頂に成功し、一人の犠牲者を出す事なく無事に撤退。しかも、当時は周辺の地図がほとんど整備されていなかった。
それでも8000m峰の登頂は過酷なモノで、山頂に立ったモーリス・エルゾーグとルイ・ナシュナルは二人逢わせて30本(!)の指を凍傷で失った。
ジオラインは化学繊維なんで、冬山にはメリノウール(それも中厚)の方がいいです。
ラジウス
学生時代使ってました。固形燃料で熱を与える事や火力調整が難しかったが、故障した記憶は殆どない。
メンテナンスも頻繁に必要ではなく、火力が弱いて欠点もあったが
ホエーブスに比べると、(火災)事故する可能性が低く昭和の時代は学生山岳部・WV部でよく使われてました。
コメントありがとうございます♪
私は実際にラヂウスを使ったことがなかったので、本だけで壊れやすいものだと思ってました。
実際には丈夫なのですね、、
この手帳は大町山岳博物館に行けば見れると思います。
ただ、私が見たのは30年ほど前なんで、ご参考まで。
コメントありがとうございます。
3‐4年前でも見れたと思います。
冬の北鎌尾根といえば、加藤文太郎ですね、「孤高の人」の。
単独行者として憧れて、北鎌尾根に登りました(夏ですが)。
コメントありがとうございます
北鎌尾根の完登おめでとうございます。
私は3月に登って敗退しました。独標の写真はその時のものです
加藤文太郎が亡くなった年に日本最初のヒマヤラ登山(戦前唯一)が成功したのも何かの縁かな。
素人考えでは、大雨でびしょ濡れになった段階で、中止すべきだったのでしょうが、当事者としてはそうはいかない事情があったのでしょうね。
コメントありがとうございます。
困難な状況ほど燃えてしまう(やる気が出る)登山家の性質が出たのかもしれませんね。
年末に雨が降ってずぶ濡れで、正月の劔に登ったことがあります。
テントで停滞してガソリンコンロで濡れものを乾かしました。
雨が降った後は冬型になります。テントがないと厳しいです。
私は東京23区生まれです。戦後の最低気温ー9℃だったと爺さんに聞きました。
現代とは比べ物になりません。
コメントありがとうございます。
この時代はゴアテックスもないし、雨に降られると大変だったと思います。
そうだよな、置いていけないよな・・・・。
そうだとは思うんだけど、やっぱ生き残るチャンスがある以上、
必死に足掻いて生き延びようとする事が、命ある者の務めだと思うんだが・・・・。
その方が、有元さんも浮かばれたんじゃなかろうか。
今となっては、御霊が安らかであるよう、祈るしかできない。
コメントありがとうございます。
ここで有元とともに果てたからこそ、いまでもクライマーの間で松濤明が伝説化しているのかもしれません。
私も彼の冥福を祈ります。
徒歩渓流会の古い会員によくしてもらいました。
松涛の話を聞きたかったけれど、
気後れしてしまい実像に近付くことはできませんでした。
自分にとっては文太郎とともに単独行のモチベーションとなる存在です。
コメントありがとうございます。
この遺書だけが有名ですが、実は彼の残した記録もすごいですよね。
南極点を目指したロバート・スコット大佐の悲劇を思い起こさせます。物語的にいくつか似通ったところもありますし。
コメントありがとうございます♪
スコットの動画もアップしてますので、是非ご覧ください
@@yukkuri_adventure スコットの動画見ました。彼らに共通していたのはその時その時の局面での判断のミスでしょうが、我々がそれをミスと言えるのは、後で結果を知っているから言えるのであって、と思うと、やるせないですね。
コメントありがとうございます♪
そうですね。私たちは判断ミスだと言えるのは結果を知っているからですね。
動画をご覧頂きありがとうございます♪
装備が濡れて放棄した段階で、引き返す決断があればまた挑戦のチャンスが有ったのに
いつも素晴らしい動画をありがとうございます。リクエスト、山野井泰史さんと奥様を取り上げて欲しいです。よろしくお願いします。
もう何10年も前になりますが、無雪期の北鎌尾根に登ったことがあります。
ルートができていてペンキのマークもあるので、そんなに困難ではありませんでした。
槍の頂上に辿り着いたときは他の登山客に注目されてちょっと恥ずかしかったです。
コメントありがとうございます♪
無積雪期でも北鎌尾根に登れるのはすごいですよ!
優しくて義理堅い人だったんだなあと…
悲しいですね
画像は、ラジウスではないですよ
スベア123も名器ですが燃料はガソリン。ラジウスの燃料は灯油植村直己も極地に持って行ってました
ご指摘ありがとうございます♪
すみません。写真を間違えていたかも知れません。確認致します。
1936(昭和11)年1月、北鎌尾根で遭難した【加藤文太郎】も取り上げてほしいです。
コメントありがとうございます♪
加藤文太郎、リストに入っています。少々お待ち下さい!
終戦直後に登山趣味にカメラの装備…父親が軍のお偉いさんだった裕福な家庭だったのかな?
コメントありがとうございます。
松濤明の父親は高級官僚だったようですね。
壮絶な登山。
1979年の、長谷川恒男さん、森田勝さんの、グランドジョラス冬季単独登攀のお話をお願いします。
コメントありがとうございます♪
リクエストにお応え出来るように頑張ります。
アリソンハーグリーブスやメスナーなどの話も聞きたいです!
コメントありがとうございます。
頑張ります。アリソンハーグリーブスには私も興味があります。
長谷川恒夫さんをお願いします。
弟が八ヶ岳赤岳で転落、骨折したときのことです。回復後、救助のお礼に、お酒を持って赤岳鉱泉に行ったら、長谷川恒夫さんにお会いしたそうです。
コメントありがとうございます。
長谷川恒夫さんは外せませんね、頑張ります
此れだけの、冷静さと、賢さが、ありながら冬の雪山🏔️に登る🎵
異常気象だったんですねー。気象衛星による天気予報、ゴアテックスの衣類の御蔭でなんとか山で遊ばせてもらっている事に感謝。
コメントありがとうございます♪
ゴアテックスは偉大な発明ですね
風雪のビバーグ
帆布のテントは濡れて
凍るとパリパリになり
撤収するのも大変です
冬季に雨になると大変です
身体と着ているものも濡れ
テントの中で震えながら
横になるのです
松濤さんの手記は
似たような経験を持った人しか
わからないかも…
自然の力に人は無力ですm(__)m
コメントありがとうございます♪
ゴアテックスは有り難いですね。
涙がでてきた。
コメントありがとうございます♪
悲しいですね、、、
失敗体験は笑うものでなく、学びです。
登山に限らず仕事でも生かされます。
多くの「ヒヤッとした」はいつか取り返しのつかない事を生みます。車もそう。
コメントありがとうございます。
松濤の遭難も色々と学びを残してくれました。
不運が重なってしまった。その場に居たように恐怖と絶望を感じました。
松濤のバカ野郎!!!有元はきっと薄れゆく意識の中で松濤に生き延びて欲しいと願っていたはずだ。いろんな登山・遭難チャンネルがありますが、このチャンネルは関連書籍をきちんと読み込んで動画を作っており、またBGMの選曲が非常に秀逸で類まれなる素晴らしい内容を発表されている。
ありがとうございます♪
これからも頑張ります。
松濤氏も有元氏も生きてさえいたら、、、と思うと残念でならない。
どんな道へ進んでも名を残したに違いない。
コメントありがとうございます。
生きていたらヒマラヤに挑戦したと思います。
戦争が終わった後だから尚更仲間を見捨てられ無い気風だったのだろうなあ。
「同じ釜の飯を食った仲間」
今時はこんな事を言う方が野暮なのか?
コメントありがとうございます。
時代もあった思います。松濤明は軍隊をあまり好きではなかったようですが。
確か、朝、雪の中から、突然出てきたとのこと。 身体はいるだけのタコつぼ掘って過ごしたとのこと。
彼なら遭難しないよ~~~~www 昔から・・・彼の帽子かぶった写真顔が大好き!!。
松濤さんのことでしょうか?
@@yukkuri_adventure
そうです! 確か、宮城県人だったような?
大好きなので、彼関係を漁った結果の情報です。@@yukkuri_adventure
びしょ濡れの時点で止めるべきだったな
( ´•̥̥̥ω•̥̥̥`) 近しい者に山男がいたので、こんな気持ちで登ってたんだなーと思いました。
「テントを失い、装備を濡らしてしまった僕たちでは…不可能だった」
テントが凍ったところでそれを思ってほしかった。
コメントありがとうございます。
引き際見失っていますね、せめて天気予報が聞けるラジオがあればと思います。
真冬にこの山は、危ない。
1949で26歳だったら終戦時には22歳。多くの同級生を失っている世代に入る人達・・・
コメントありがとうございます。
松濤は軍隊生活が嫌だったようですが、同世代の友人をたくさん失ったのかもしれませんね。
見応えがありました。登山家のことはほとんど知らないので勉強になります。
BGMはところどころ場面にそぐわないので無理して入れなくても(BGMなしでも)いいかなと思います。
コメントありがとうございます。
BGMに対するご意見もありがとうございます。
場面にそぐわなかったのはどのあたりでしょうか?
他の方からもBGMの音量が大きいというご意見がありましたので、ミヤコンカ編からはBGMの音量を下げました。
@@yukkuri_adventure コメント返信ありがとうございます。
素人の意見で恐縮ですが、2:23 から始まった笛と三味線?的な音楽が割と軽快で楽しそうな曲なのに対し、すでに松濤たちの状況はかなり悪化しているのでちょっとちぐはぐに感じてしまいました。
アドバイスありがとうございます。
次回は改善させて頂きます。
BGMは後半位から演出に功を奏していたと思います。自分は前半も特に気になることもなかったです。
開拓時代のドナー隊もお願いします
コメントありがとうございます♪
ドナー隊は少し方向性が違う気もしますが、検討してみます
お見事です。👏
加藤文太郎をやってください。新田次郎、孤高の人、の主人公です👏
ありがとうございます♪
頑張ります!
極地法なんぞ登山家の恥だ!とゴルゴ13で中国の山岳部隊の隊長が言ってたな。
でも生命失くすよりかはと思ってしまう
旦那を失い息子も失った母親の人生とはいったい…
さすがに這いずってでも帰って欲しかったな
コメントありがとうございます♪
ゴルゴで極地法が語られているとは知らなかったです。
松濤明氏は学徒出陣を経験した人だったようだ。彼の遺書にはどことなく特攻隊員の遺書のような雰囲気があるな、と感じたが彼と特攻隊員たちとはほぼ同世代であり、生きて帰れただけでも奇跡だったのかもしれない。ただ、松濤氏は好きな登山を楽しみ、好きな山で死ねた。死に場所を選べなかった特攻隊員たちよりほんの少しだけ幸せだったろう。合掌。
コメントありがとうございます。
確かに戦争で亡くなるよりは、好きな山で友達と死んだ方がまだ幸せだったでしょうね。
最初の雨の時点で引く事を決断しておけば;;勇気と無謀は別物
涙しか
年代を考えると冬の槍ヶ岳への挑戦は現代では海外で登山するくらいハードルが高いのかもしれません。
装備や技術の進歩もそうですが交通技術の発展も忘れてはいけないですね。
諸々の準備も含めて考えると引き返すという発想も難しかったのかもしれません。
TMさん
コメントありがとうございます。
そうですね、松濤は現代の海外登山レベルで準備に労力を費やしていたはずです。
簡単には引き返せなかったのかもしれません。
ラジウスはシンプルな構造なのでめったに故障しません。(煤で詰まるくらいだが掃除する針道具が付属している)
コメントありがとうございます♪
そうなんですか、私は昔に火を噴いたり点火しないことを見た思い出があるので故障しやすいと思っていました。
@@yukkuri_adventure しっかりプレヒートしてからポンピングすれば大丈夫です。たのもしい相棒でした。欠点は大きくて重いことですね。
そうなんですね!
貴重なお話をありがとうございました
大無間山で遭難した坂本義一さんをお願いします!
コメントありがとうございます♪
正直知らない方ですね、、、
資料あるかなぁ
遭難の内容が八甲田と遜色無い…
コメントありがとうございます♪
ゴアテックスの力はやはり偉大です
モンベルはアウトドア用品の製造販売を手掛ける会社の名前です。
防水性や撥水性などの機能性素材の名ではありません。
コメントありがとうございます♪
確かにゴアテックスと同列に並べることは誤解を招く表現だったかもしれません
山とは関係無いけど、この時代に冬山に挑戦
出来るとは裕福な環境だったでしょうか?
普通の人は衣食に困窮してる時代だと親に
聞いてます。
コメントありがとうございます♪
松濤のお父さんは官僚だったようで、平均以上の経済状況だったと思います
返信有難う御座います。
登山家はみんな死を受け入れてて一般人と考え方がかけ離れてる。
いや、かけ離れてないと雪山に登ろうと思わないか・・・
コメントありがとうございます。
命を懸ける挑戦だからこそ、冬山は麻薬のように登山者を引き付けるのだと思います。
最早、テントを失った時点で
異常事態なんだから一旦帰れやw
戦時中に叩き込まれた軍国主義観から、撤退を恥じる意識が強かったのかもしれませんね。低体温症の危険性も、恐らく現代ほど周知されていなかった。義を貫いて亡くなられたのが救いです。合掌。
コメントありがとうございます♪
ゴアテックスのような防水装備がなかったため、濡れに弱かったと思います。
帰って😰
テントもなく服もびしょびしょとか死ぬ
テントが氷った時点で引き返せばな